ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

斜鏡な日々(1)

 試験が終わって、3週間がたった。パーッと遊んだのかっていうとそんなこともなくて、粛々と勉強を続けている。

 最近やっているのは、条文の書き写しだ。条文の中の主要なものをチェック、ノートに手で書き出していく。

 条文なんて、いくらでも印刷されたものがある。さらにわかりやすい言葉で書きなおされたものもあるし、ネットにもアップされてる。読めばいいだけの話だし、デジタル版なら一瞬で目的の条文が表示される。

 なのに、わざわざ手で書き留めている。

 1日あたりの勉強時間は、3時間程度。これをまるごと充てたって、どれほども進みはしない。それに手も痛くなってくる。痛いのを我慢し、ときには動かせるようになるまで少し止めたりしながら書き写す。2条分ほどもやって時計を見ると、もう1時間経っていたりして、まるで時が自分を忘れて走り抜けていったような感覚に囚われてしまう。

 写経だね、全く。

 ただ、この視点に立って行為を観察してみると、逆に写経という宗教的儀式の意義も見えてくるような気もするのだ。

 条文を書き写しているとき、ひたすら一心に特許法のことだけを考えられるのかっていうとそんなわけもなくて、あれこれ関係ないことをつい考えてしまう。人の意識というのは、繋がっているようでいて、実際には途切れ途切れなのだ。手を動かして文字を書くために要する時間は長く、手が必死に動いていても脳の方は手持ち無沙汰なんだろう。ここで雑念なのだけど、不思議と嫌なことばかりだ。自分の中にあるドロドロとした部分が沸き上がってきてしまう。

 実際の写経ってのも、こんなもんなんじゃないだろうか。修行僧たちの脳内にだって、きっとどんどん雑念が湧いてくるのだろう。だから、それを抑えこもうとして心のなかで格闘するしかない。それが修行なんだろう。ぼくも、雑念が自然と退けられ、特許法のことだけ一心に考えて条文書きができるようになる頃には、合格水準に達しているのかもしれない。