ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

斜鏡な日々(3)

 暗記が好きな人は少数派だろう。ただ、ノリと勢いでやれてしまうことがある。化学の周期表の「水兵リーベ」だって、作られたときはそんなシャレだったんだろうね。ぼくの代では、これはもう体制に組み込まれてしまっていたから、遊び心の対象にはならなかった。たぶん縦に憶える(『エッチなリナちゃん』ではじまるやつ)のは、それへのアンチテーゼなんだろうね。ぼくの頃にはまだなかったけど。

 高校生の頃、そうしたノリと勢いの実例として、憲法の暗記に取り組んだことがあった。別に平和憲法の素晴らしさに感激したからじゃない。入試勉強としてだ。

 社会科の受験科目として2年生の時点で「政治経済」を選んだぼくは、浪人や3年生も混じった全国模試で、偏差値70オーバーを獲得していた。まあこんだけできりゃ他に移ればいいものだが、気を良くして完璧な得点力を志向してしまう。その結果として取り組んだのが、憲法前文の丸暗記だったのだ。これはすぐに達成、調子こいて続けたのが、1条以降も憶えていくという取り組みだった。

 得点経済という視点から見ると、これはかなり間抜けだ。憲法なんて、出題されるにしても大問1つ未満。内容なんて一覧表で憶えておけばいいし、そこに書いてないようなことが出題されたとしても、どうせ誰にも解けないのだから、点差にはならない。でも、そういう冷静な判断ができないのが高校生というやつだろう。若者ならではの溢れる暗記能力を無駄遣いして、一度はちゃんと憶えてしまったのだ。実戦での出題があったのかなかったのかは、憶えてない。このへんが、無駄遣いの無駄遣いたるところだ。

 そんな憲法も、もうとっくに忘れてしまっている。全く使う機会がないからだ。般若心経が憶えられているのも、使う機会がとにかく多いからだろう。葬式に行けば必ず唱和するし、一度葬式があると、その後初七日・一周忌・三回忌と、何度も使う機会がやってくる。

 まあ、儀式のたびに憲法をみんなで唱和するような国家じゃ、嫌だろうなあ。それはそれで全体主義国家としか言えないわけだし。