斜鏡な日々(5)
お経は、憶えないといけないものなんだろうか。
現実問題として、アンチョコみながらお経を読む坊さんには、あまり会わない。実家の宗派は臨済宗で、般若心経以外にも「なむからたんのう、とーらーや、とーらーや、」なんて梵語を音転写したのまで、葬儀や法事で詠み上げられる。あんなとんでもないものでも、実家に来る坊さんはちゃんとソラで読み切る。まあ、多少間違えていたとしても、ぼくらにはわからないけど。
彼らが憶えているのは、単に仕事での便宜からかもしれない。ただ「経を読む」ことそのものに有り難みを求めていることは確かだろう。それは、意味なのか、音なのか。
般若心経については、憶えようとする過程で、坊さんがアドバイスをくれた。
「意味なんて考えないほうがいいんですよ。
音とリズムで憶えられますから」
実際、それはそうで、うっかり飛ばしたりすると、音とリズムの奇妙さで、自分でも気づくことができる。でも、それでいいんだろうか。
本来、仏教の経というのは、釈迦の述べた言葉ということになっている。でも、彼は古代インドの言葉で喋ったわけだ。それを弟子の弟子の……の弟子が(経典は最古のものでも釈迦入滅後数世紀たってから書かれている)サンスクリット語で書きまとめ、それをさらに何百年も経ってから三蔵法師みたいな人が中国語に訳している。ぼくたちが「まーかーはんにゃはらみた」なんて読み上げてるのは、それをさらに日本式の音読みで発声しているってことにすぎない。どう考えたって、音自体には意味はなさそうなのだ。
まあ、だから禅なのかもしれないけど。