ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

斜鏡な日々(終)

 今回はいつにも増して、だらだらと書き連ねてしまった。

 元々が、ぼやきだからね。建設的でないのも、ちょっと仕方ない。実際、最近のぼくは特許法の写経に忙しく、あまりブログの文章を書いている時間がとれないでいる。今日は休日出勤で、しかも出勤時刻がふだんより早められていた。そこでうんと早い電車で出勤、カフェで時間つぶしをすることになり、こうして文章を書けているわけだ。もちろん終わりの方になっている現時点では、既に帰宅モードだ。途中にあるベーカリーのイートインで、この文章を書いている。

 成り行きで書いてきただけだけど、一つ繋がった点がある。「法」という言葉が、元々は仏教用語だってことだ。

 明治の最初の頃はまだ「law」をどう訳すのかが決まっていなくて、日本史にも出てくる新聞条例とか讒謗律とかに見られるように、その都度適当に決めていた。誰が「法」なんて言葉を持ってきたのかはわからない。だけど、そこには「人智を超えた普遍性あるルール」みたいなものが想定されているように思える。

 じゃあそれは暗誦すべきものなんだろうかといえば、ぼくとしてはノーだ。実際の法は、人智など超えちゃいない。ただの取り決めで、社会を良くする目的で時代ごとに作り変えていく道具に過ぎない。でも、そういうこと言ってると、合格点がとれないのだ。

 ちなみにぼくの唯一の(仏教的)写経体験の場である三千院。これは、京都の大原っていうところにある。書きながら寺の名前がすぐに出てこなくて、Googleで検索したら、なんと検索結果のページに上がったのは、全て「資格は大原!」ばっかり。まあ三千院は広告費出してくれないしね。

 弁理士試験から始まって、資格の大原で終わる。気が効いているような、ないような。まあ、今回はこれで終わりとしておこう。