ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

書くとか書かないとか(3)

 文章を書いて社会に向けて発信するというのは、かつてはマスコミや作家・文化人だけの特権だった。特権というからにはそれは少数者だけのもの。生態系ピラミッドの頂点付近だけしか持たないわけで、底辺のあたりからそこまでのし上がることが、簡単なはずはない。文学賞の受賞なんてのはまだスタートラインに立っただけの話。それがそのまま本になることだって稀だし、次の本が出さえてもらえるためには更に分厚い壁がある。

 ぼくが文学青年的なポジションにいたのは、まだ昭和の頃だ。実際には応募すらしなかったけど、本気で目指していたとしたら、苦悩させられたことだろう。その時代、新人作家たちは「育てる」という大義名分の下、編集者たちにいびられていた。今では多くの作家のエッセイに書かれているし、フィクションだと、筒井康隆さんの『大いなる助走』がある。作家志望の青年が本出したさに屈辱的扱いに耐え続けついに爆発するって話で、当時のぼくは、単なるブラックジョークだと思ってその本を読んでた。そして、その後もずっと、作家になれば左うちわの貴族暮らしが待っているような気でいたものだ。

 今でも、プロ作家になるためには、同じような努力が必要だと思う。現代の編集者は、いくらなんでも昭和の連中より陰険なんてことはないと思うけど、出版市場の縮小がその辺を相殺してしまっているはずだから。でも、プロでなくてもいいのなら、現代ほど“デビュー”しやすい時代はないのだ。

 それでも、紙の本は出したい。出すだけなら、同人誌を作ればいい。でも、同人誌だって、売るためには戦略が必要だ。内容さえ良ければ売れるなんてことはない。メジャー媒体のような辱めは受けないものの、やはり壁にぶつかることになるだろう。それに、現実問題として、印刷製本費は高いし。マンガだったら32ページで600円しても許してもらえるよ。でも小説だと無理だ。だいたいそんな少ないページ数じゃ、どうにもならない。

 あれこれジレンマにはまり、今ではもうどうでもよくなった。結果として、本来裏表でなければいけないはずの「書きたい」と「読まれたい」が分離してしまい、今回みたいになっている。