ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

「語る」を語ろう、戦争(終)

 新しいメディアというのは、タブーへの突破口になる。実際のところ、ぼくたち創作者がぶちあたる壁は、文化とか風習とかいった、目に見えない壁じゃない。はっきり言えば、人だ。編集者やプロデューサーがOKをくれないから、小説やドラマとして世に出ることがない。でも、そういう「体制側の職業」が成立する前のメディアなら、話は別だ。

 かつて「大戦略」というゲームがあった。PC88から98の時代、「パソコン買ったら『大戦略』」なんて流れが確かにあった、定番ソフトだ。これは何かって言うと、戦術シミュレーション。ぼくたちの年代は、これを通じて戦争を知っているようなものだ。今のゲームは、もっとストーリー志向になってる。だから、描けるものも違ってくるはずだ。

 それとも、小説として書いてしまおうか。

 もう、年長者たちに遠慮をするのも飽きてきた。なんでタブーになっていたのかっていうと、彼らが許してくれなかったからだ。「若い連中は戦争への関心が足りん!」なんて文句言うくせに、こっちが戦争を扱うと「体験したこともない者が何を言うか!」なんて怒ってくる。もうぼくは全然若くないのだけど、年齢の上下さは逆転することはないから、関係もずっと維持されてしまっている。しょうがないから、宇宙世紀の話にしたり、あるいは剣と魔法の世界に舞台を移したりするわけだけど、そんな遠慮をいつまでもしていても仕方ない。

 ラノベとして書く? あえて「昭和の日本」として。銃後の女学生がケラケラ笑っているような、「日常の中の戦争」。陸軍軍人が「オレ、わかんないよ、そんなこと!」なんて喋っちゃうような、とか。年配者からの批難なんてのは、ここじゃ景気付けのお囃子みたいなものだ。