ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

特殊能力でもオカルトでもなく(5)

 読書には、戦いとしての側面がある。当事者の一方は読者。そして他方は言うまでもなく、著者だ。別の言い方をすれば「批判的な読書」というやつで、知的な営みとして本を読む上では、欠かせない要素だと言っていいだろう。

 まあ戦いと言っても、砂浜のビーチボールバレーみたいな友情と下心に満ちた戦いもあるから、必ずしも殺伐としたものではない。ただ、ビーチボールのつもりで受けてたら中に毒ガスが詰まってたなんて可能性もあるから、いくら見た目が優しげだって、油断しててはいけない。

 本には「思考の転写手段」という意味がある。人は文章で思考する。だから思考の順に沿った文章が、いちばんわかりやすい。そして読む側としても、書き手の思考を受け入れなぞっていくのが、いちばん理解しやすくなる。ちゃんとした書き手なら、読み手の心理を考えながら誘導していく。読み手の考えそうなことを先回りし、当然出てきそうな疑問を挙げながらそれを反論するとかね。読者はあたかも自分で考えているような気持ちで理解していくことができ、心地よい体験を提供できるわけだ。理系の論文が心に響かないのはそれがないからだし、同じテーマを扱いながら講談社ブルーバックスが面白い(全てじゃないけど)のはそれがあるからだ。科学者による原理や法則の発見を、読者も追体験できるわけだね。

 でも機能というのは、悪用だってできるのだ。自説にとって有利な情報を選別し、都合の悪いことは意図的にはぐらかす。さらに、例外的事例を典型例のように扱ったりその逆をしたり。悪意を持った著者にかかれば、読者なんて催眠商法の被害者と変わらない。

 だけど速読に対しては、この方法が通用しない。書き手が設定した流れとは全く違う方式で読んでいくからだ。書かれた文章はあくまでも素材にすぎず、容赦なくぶった斬りながら断片をどんどん食らっていくって感じだ。著者がしたかったような思考誘導を受けなくて済む。