ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

特殊能力でもオカルトでもなく(7)

 さて、年代的に上の方の人間だと、「知識の基本=本」ということについて疑問はない。でも、学生たちの年代に対してこれを言うと、たちまち言い返されてしまう。なので、事前にその言い返しに言い返しておこう。

 それは、インターネットは本の代用品にはならないということだ。インターネット上に展開しているこの書き物でこういうこと主張するのも何だが、一応はっきりしておかなければいけないだろう。世の中を理解するための道具である本、その立場に立てるのは本だけ。インターネットではだめだ。

 なんでか。結局のところ、「査読の有無」というところに行き着く。

 本は商業的な製作物だから、何段階ものチェックが入る。もちろん最関心事は「売れる?」だけど、内容や論旨の正しさは製品にとっての品質だから、当然重要視する。そもそも書き手の時点で選別されているし、そういう書き手にいい仕事をさせるための仕組みも、システム化されている。でも、インターネットの文章には、それはない。もちろん、メジャーな会社が作っている読み物系サイトの記事は、ある程度の査読にかかっているだろう。でも、そういうことを全くしないままのサイトだって開くことはできるし、外観だって同じに作ることができる。読書人なら書き手の名前である程度判断できるけど、多くのネット民には通用しない。

 こういう場合「悪貨は良貨を駆逐する」というのが、経済法則の示唆するところ。実際、多くのネット民は、朝日や読売のブランド名が付いている方をむしろ信じず、まとめサイトの出所不明な情報の方に踊らされてるわけだし。みんな(ぼくも)大好きなWikipediaだって、誰でも匿名のままで好きなだけ書き足し/書き換えを行えるシステムだ。いわゆる「荒らし」でもすれば除名されるけど、単に不正確なことを書いたってだけでは、そうはならない。

 自分自身が裏をとっていない情報を真実だと思い込んで記事に書き加える。それを見た人が自分自身のサイトに記事を書く。その記事は複数まとめサイトを通じて拡散する。そんなn次情報が増えると「みんなそう言ってるし」で、事実扱いされてしまう。ネットは誰でも平等な票を持つという点で民主的だ。だから、衆愚政もあれば僭主政だって出てきてしまうのだ。