ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

昔は泣き喚いたものだけどね(終)

 それでも、ときどき思う。全てを失うことも、時には必要なのかも知れないと。

 人は忘れる。忘れるから、生きていける。もし全ての経験を、リアルタイムな出来事と変わらないレベルで克明に憶えているとしたら、とても生きていけないだろう。最近、歳のせいか、古いことをやたらと思い出す。思い出しては、赤面していたりするのだ。

 でもコンピュータの記憶ってのは、全てがリアルタイムだ。GREP検索でまだ「若者」だった頃の青臭い文章を見て、あー恥ずかしいなんて思ったりするけど、電脳化されてしまったら、昨日も去年も十年前も、みーんな同じ。こうなると、むしろ人として進歩できないってことにならないだろうか。

 ファイルの消去ってのは事故だ。でも、それがあるから、過去を断ち切れる。コンピュータの「人間の知性を支援する道具」側面を考えると、それには、人間が持つ「『忘れる』ことで、昔の自分と自然に決別できる機能」をだいじにする設計思想が導入されてもいいはずだ。

 例えば、こんな仕組みかもしれない。長く使わないでいるデータを、自動的にどんどん消していく。この時、単に消滅させるんじゃなくて、適当に要約する。そこに追加されるのが「思い出は美しい」機能。すべてが美しくなるとか。嫌なことがそこから消え、いいことばかりが強調されるとか。これまでに書いたものを元にその人の好みとかが推測され、それに合わせて過去が修正されていく……。

 まあ本当にそんな時代が来たら、物書き系の人間なんて雇ってもらえなくなってしまうんだけど。