ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

直球勝負、ゲームデザイン!(8)

 ここでもうひとつ、言えることがある。ゲームデザイナーの作品は、ゲームだということだ。

 ゲームデザイナーが作る文書として、企画書というのがある。でもこれは作品のために作られる資料であって、作品ではない。企画書そのものが美しい必要はない。それによって作られるゲームが美しければ(面白ければ)いいのだ。ただ、美しい(面白い)企画書を書ける人は、「何が人から見て美しい(面白い)か」への洞察ができる人、あるいは他人から見ての美しさ(面白さ)が気になる人ということで、やはりゲームそのものを美しく(面白く)する能力と無関係ではないのだけど。

 ともあれ、こういう間接的な仕事のスタンスというのは、作家や漫画家とは違っている。その人達なら、黙々と書く/描くことが許されるし、結果としての作品だけで勝負することもできる。だけど、ゲームデザイナーは、黙々としてたんじゃ仕事にならない。

 映画監督や建築家が、わりあい近い存在かもしれない。うんと昔だけど、イギリスの大学の先生からインタビューを受けた時、通訳の人はぼくのポジションを「コンセプチュアル・アーキテクト」と紹介していた。アーキテクト=建築家だ。建築家は設計図を描くだろう。でも、その巧さを競い合っているわけじゃない。映画監督だって、絵コンテが上手い人が選ばれるわけじゃない。

 さて、このことと、うんと前の方で述べたこと「作れる人には仕事がある」を組み合わせれば、どうしたらゲームデザイナーになれるのかの答えは出てくるわけだ。そして、志望者としては、自分をそういう人に育てればいい。でも、それは、福音のふりをした呪いかもしれないのだ。